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2015年4月 5日 (日)

夜と霧

とても大きな感動をもって読み終えた本である。恐らく生涯の中で出会うことができる最良の部類に入る本である。明日をも知れぬ命そしていつまで続くかわからない強制収容所から生還できたフランクル教授が説く人生論はとても力強い。ニーチェの言う「何故生きるかを知っているものは、ほとんど如何に生きるか、に耐えるのだ」ように未来を信じたひとが強制収容所を生き延びた。では何故いきるのか?全く拠り所を失った人々の典型的な口のきき方は「私はもはや人生から期待すべきものは何ももっていないのだ」。ここで必要なのは生命の意味につての問いの観点変更であるという。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるのかが問題でなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているのかが問題である。われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われたものとして体験されるのである。人生は毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。

「恩讐の彼方に」の中で市九郎(了海)が青の洞門を独力で掘り続けたのと通ずると思う。またケネディの有名な演説とも共通するものがある。

ヴィクトール・E・フランクル/みすず書房

耄碌寸前

森鷗外の長男、於菟の文と最初に出会ったのは水戸市の「大人日和」とか言う雑誌に有った吉田さん(吉田石油会長)のエッセイだと思う。エッセイの中で引かれた文に興味を持った。医学者である於菟から見ると「生理的には男性よりも女性が上位にあると思っている。寿命も長く、病気への抵抗力もあり、しかも生殖機能において子孫を生み出すという絶対的な優越性をもっている」「男性は本来優秀であるがために立派な仕事を残すのではない。むしろ生物学的に劣っているので、その劣性を挽回するために仕事に打ち込むのだ。男性から仕事を除いたとき、彼は首輪を外された犬のようにみじめになる。」「男性は思春期になると女性の裸体を見ただけで精神の平衡がすべて失われ、その場で欲求を満足させなければブラストレーションが行われ、心理的に不幸になるという宿命を背負わされている。」など、

思い当たる考察が引用されていた。ただ、「なきがら陳情」は何処で読んだ覚えがある。文豪の長男としてうまれ於菟が、抑制の効いた達意の文で父のこと、日常の何気ない事、人生に対する考え方を書いている。抑制は効いているが血の温もりを感じる。父への深い尊敬と文豪の家族、日常のエピソードを紹介することで文豪を世間に良く理解して貰いたいという思いが伝わる。

 

森 於菟

みすず書房

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